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【考察】『許された子どもたち』いじめをなくす一歩として何が出来るのか?評価&感想【No.674】

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■作品紹介


公開日/2020年6月1日

上映時間/131分(2時間11分)

監督/内藤瑛亮

制作国/日本

■予告


■あらすじ

とある地方都市。不良グループのリーダーである中学1年生の市川絆星は、同級生の倉持樹に対するいじめをエスカレートさせ、ついには彼を殺してしまう。警察に犯行を自供する絆星だったが、息子の無罪を信じる母親・真理の説得により否認に転じる。少年審判は無罪に相当する「不処分」の決定を下し絆星は自由を得るが、世間では激しいバッシングが巻き起こる。そんな中、樹の家族は絆星ら不良グループの罪を問う民事訴訟を起こすことを決意する。

引用元:許された子どもたち : 作品情報 - 映画.com

■ネタバレあり感想

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『許された子どもたち』

公開から一ヶ月経ってもその知名度は映画ファンの間では止まらない話題作。物語はあるニュースを構成に、いじめで殺してしまった不良グループが裁判で不処分とされてしまい、世間からバッシングを受ける姿を見せた作品


一応改めて言うと俺はいじめは幼稚園から中学生までずっと受けていました。これに関してはチラッと『聲の形』のレビューの際にも話しています


この映画でもいじめ問題に関しては取り上げていますが、かなり複雑な心境にさせてくれる作品だなと思います。かなり見る人によっては賛否は分かれるし、答えも違ってくるとは思います。


たぶん「いじめは罪になるのか」「正義の振りかざし方によって悪にもなる」という考えの人は多そうですね。それも正しいし、俺も話しては行くとは思うけど個人的には「いや、実はもっとシンプルな答えを提示してるんじゃないか」と思うわけです


今回はいじめられた経験のある俺が映画の感想を言いながら、自分なりの考察を話していけたらなと思います。少し考察は苦手なのでそこは暖かい目で見てくれたらありがたいです。



◆映画の大まかな感想

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まずいつも通り映画の感想を軽く話していきます。映画に関して言えば先ほども言いましたがかなり賛否が別れます。好きじゃない人もいれば、傑作だと言う人もいるでしょう。俺はどちらかと言えば後者です。


映画の映像の演出の面白さや、セットデザインなんかもやはり素晴らしくて途中から画面にデカデカ映るタイトルには映画ファンとしてはかなり鳥肌は立ちました。序盤のかかしなんて「あんなの無いよ」と言いたくなりますが、なんだかんだ好きです。あのカカシをぶっ壊すシーンで彼らがどれだけ暴力的なのか生身の人間を使わずに表現したのは素晴らしいです。


演技も素晴らしかったです。特に主役の上村侑の演技は素晴らしかったです。あまりにも自然すぎるし、実際こんないじめっこはいましたね。表面上は静かでいつどんなことをするか分からないような人。常に緊張感が続く映画ですが、その緊張感の7割は彼から放たれる「何をするか分からない恐怖」から出てたと思います。
母親役の黒岩よしのキャラクターも素晴らしかったです。さっきから素晴らしかったしか言ってませんね。


その他の点で言えば映画自体がかなり観客の気持ちを掴むのが上手いなというのもありました。常に緊張感がありどこへ向かうか分からないドキドキ感というのも確かに感じられましたが、映画が時間に経つにつれて映画そのものの気持ちや気分が変わる珍しいタイプの作品でしたね


序盤はいじめっこ達のいじめや殺害、そして殺害に対して裁判は不処分という形になり観客は「クソッタレ」と感じる。
その後世間からのバッシングや逆に主人公が痛め付けられてしまい「ざまーみろ」と感じる


けれど後半部分で世間のやりすぎなバッシングであったり、他のキャラクターの正義の振りかざし方に疑問を持ちはじめて「なんだか主人公一家が可哀想」と感じる。
そしてラストシーンは一見すれば普通な感じなんだけど、なんかモヤモヤする気持ちにさせられて「一体この時間はなんだったんだろう」と感じてしまう


ちなみにこの流れはかなり大切な部分でもあるんですよね。かなり大切な流れであり、この気持ちにさせたのも正直言うなら監督は天才だなと思います。


例えば『容疑者Xの献身』という東野圭吾原作で福山雅治主演の映画はご存知でしょうか?すみませんが知っている体で話すなら例えばもし犯人がなぜあの妻子を守ることになったのかという理由がなかった場合、説明がなかった場合あの犯人はただのストーカーという見方になってしまう
だけど犯人がなぜ妻子を助けることを決意したのか。その理由が分かると犯人の見方がガラッと変わります。この理由については映画か原作を観てほしいです


これは簡単な例になりますが、じゃあ実際の映画はどうなるのか?最初は胸くそ悪いキャラクターが後半から可哀想に思えてきて、逆に周りのキャラクターがかなり胸くそ悪くなる。だけれど最終的には「いじめる側が悪い」と思っていた考えが、見方を変えると「アレ。実は正義を振りかざした我々にも悪い部分があるのではないか」と最後モヤモヤしてしまう。


これ実は是枝裕和監督などがやる「じゃあ、あなたはこの映画を観てどう思いますか?」という手法の究極バージョンになるんじゃないかと。


いじめる側、いじめられる側という勢力がある場合もうひとつの勢力があるのをご存知ですか?「第三勢力」といういじめる側にもいじめられる側にも属さないただその二つの勢力をただ見ている人物たちのことを指します。
皆さんの周りにもいませんでした?いじめをただ見ているだけの人たち。この映画にもその描写はありましたよね?それが自分の場合もあるのでは?


この映画は「いじめは犯罪なのか?」とか「正義とはなにか?」というのも勿論そうですが、なによりも映画が警報を鳴らしているのは「第三勢力」であり、この「第三勢力」に対する疑問を投げ掛けているのではと思います。


いじめをただ見ているだけの「第三勢力」、そしていじめで犯罪を犯した主人公とそれをバッシングする姿を席にゆったりと座り映画を観ていた我々観客と言う名の「第三勢力」
この映画がいかにいじめ問題で「第三勢力」が重要かというのをこれから個人的な考察で話していきます


※ここから個人的な考察に入ります。あくまで一人の意見として聞いてくれたら幸いです


◆いじめの問題は第三者にも問題がある

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個人的にはいじめる側も問題はありますが、この「ただ見ているだけ」の第三勢力事態はかなりクソッタレだと思っています。実際自分もいじめられた時なんかは周りの人が助けなかったということはよくあります。


実際そこの理由は様々ですがよく聞くのが「助けたら自分が標的になるから怖い」という理由でしょう。実はこの「自分が標的になるから」という第三勢力の「自分」という考えもかなり映画の中でぶつけていると感じますが後々話します。


この周りの人がなにもしない。もしくは圧倒的立場の人間の流れに乗る周りの人間というのは俺が映画を観た際にここの描写はかなりリアルで変な言い方ですが鳥肌立ちました。


普通の映画のように何かあれば「周りの人間が止めに入る」ということをこの映画では基本しません。
例えば主人公が割り箸ボウガンでいじめられている子を殺す際も中学生なら生と死を見たことが少なくても、それがヤバイと感じるはずなのに止めません


ボウガンで殺した際も誰も助けようとはせずに主人公が逃げたらその流れで皆逃げたり、その後主人公が自分より強い奴に殴られたりしても周りの友人は助けたりはしません。他の学校に移っても主人公が犯人だと分かると、周りの人は敵扱いします。


とにかく「自分が被害に会いたくない」「自分は助かりたい」と思っている人たちは大勢いるし、この映画だけでなく現実でも普通にありえることなんですよね。


なによりこの作品観ていて一番恐ろしくてもう逆に笑えるシーンをひとつ紹介します。


別の学校に移った主人公がある日の授業で「いじめについてグループになって話し合う」というシーンがあり、色んなグループが「いじめはなぜ起きるのか?」「いじめを止めるには?」と話し合いします。


これしっかり話し合いしてるなと思いきやしっかり聞いた人達なら分かるとは思いますが、皆「いじめた人が悪い」「いじめられた人にも責任はある」「いじめる人にも何かしら理由がある」などなど話しているんです。


そうなんですよ。これ、「周りの人も助けないと」とか「ただ見ているんじゃなくて自分達も止めにいかないと」と第三者の意見が全く見当たらないし、もういじめをフィクション作品なんじゃないかと思って話してるんですよ。


正直に言うなら俺は観ていてこの時間スゲー時間の無駄だなと思いましたし、今現在の学校でもまだこんなことするのかと思いましたよ。
そもそもいじめなんて話し合いや目標を立てても何もならないんですよ。いや、なにか少しは変わるかもですがやはり黄金の看板を掲げたところで行動しなければ何も始まらない訳です



◆大人は自分のことしか考えてない

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そうして子どもが苦しんでいる中、大人と言うものはなかなか勝手なもので、劇中の大人たちを好きになった人なんてあまりいないでしょう。


自分の仕事や利益しか考えない人、とりあえず外面だけ良くて中身は何も考えてはいない人などなどとにかくこの映画の大人たちは子どもが苦しんだり、悩んだりしているけれども自分の事しか考えていなくて、そういう事で子供の助け道が塞がれてしまうんですよね


俺は眼鏡をかけていて中学の時に体育で危ないから眼鏡を外して授業してた時があって、眼鏡を取りに行ったら置いてた場所に無かったんですよね。結構探してもなかなか見つからなくて先生に相談して「分かった。一緒に探そう」と言われましたけど、結局約束の放課後になっても来なくてとりあえず俺だけ一通り探して見つからないから先生にまた声かけたら「あーそんな話あったな。で見つかった?」という言葉。勿論見つかりませんでしたよ。


別に大人全員が全員そうではないし、金八先生みたいな人もいるかもしれません。ただ大抵の場合こどものいじめ問題は大人はあまり首はツッコまないし、とにかく他人事のように自分優先なんですよね。


あとひとつ思い出したのがいじめを何となく知っていた先生に「何かあれば言いなよ」と良く言われましたが、「じゃあ察してるなら「言いなよ」じゃなくて「いじめられてるのか?」って声かけてくれよ」って言いたくなりますよ


そして特に自分勝手な大人を表してたのが主人公の母親でしょう。母親についてもこれから話していきますが、もう子供にキラキラネームつけたり、その理由もなんか長ったらしくて覚えてないんだけどかなり気持ち悪くて自分の欲に溺れてつけた名前なんだなと思いますよ


キラキラネームも生まれたての子供が名乗る訳じゃなくて、生んだ親や父親とか親戚がつけたりしますからね。そこで流行りに乗っかってキラキラネームにする辺りも子供の将来をあまり気にしてない大人の勝手な行動だなと思います


◆母親の優しさは本当の優しさだったのか?

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正直あれを優しさと言うならかなりの甘えですよね。「息子が殺人鬼になったかも知れない。だけど殺しはしていない。私は息子を信じたいの!」その気持ちは分からなくはないです。


よく親なんかは「どんなことがあっても私は貴方の味方だからね」という親はいますし、自分の親もそうでした。だけれど劇中の息子の犯行を隠したり、息子に甘やかしたりするというのは果たして親としての優しさなのかと言われたらそうではないと思います。


俺の下に子供という存在はまだいませんが、絶対的に言えることは「今後こどもの将来が悪い方向へ行かない為にしっかり注意をする」というのも親の優しさではないのかと思うんです。


人を殺したならしっかり注意どころか叱って一緒に自首する。いじめたなら、何故人をいじめたのか聞く。いじめや殺害以外にも人としてやってはいけないこと、後々恥ずかしくなるようなことなどはちゃんと声を大にして聞かせるというのも親の優しさではないんでしょうか?


たぶん今の世の中の親も全員が全員ではありませんが子どもを甘やかしたり、または反対に言うことを無理に聞かせたりする親が多くなって本当の子供に対する優しさというのはどこへ行ったのかというのも投げ掛けてる感じはします


劇中の母親も子供が帰った時間を嘘ついて助けたりしますが、それは勿論優しさかと言われたら優しさではないです。


ただ母親もなんとなく子供が殺人したのではないかと察していた、もしくは分かっていたのかもしれません。だけれど「あの優しい子が、昔いじめられて人の傷つくのを知る子が殺人なんてするわけない!」と信じなかったんでしょう。


だから常に息子に対しては「大丈夫」「あなたは悪くない」と言ったりしますが、これはたぶん母親自信がそういうのを信じたくないばかりの現実逃避だったのかも知れませんね。あのエッセイ本を出版するシーンもそうした現実逃避した現れなのかなと思います。


「いけない」ことは「いけない」と言えずに母親が現実を見ずに息子としっかりと向き合わなかった。これはある意味母親も自分勝手な行いだったのかなと思いますよね。


だからあの配信者の正義の鉄槌も「あの殺人の母親を殴ってやる!」という悪質なシーンというよりかは、「甘えさせるばかりの母親ではなく、叱るところは叱れよ」という現代の母親に対するメッセージにも見えました。これは俺だけかもしれませんが。


それに主人公と母親がちゃんと目と目を合わせ向き合って話すシーンて、たぶん終盤だけなんですよ。しかもその向き合うシーンも主人公が母親に「なんで時間のこと嘘ついたの?」と話したりしてますからね


◆終盤主人公が暴れる、母親が走るあのシーンの意味

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劇場から帰る際にも俺がいた時間帯の観客の話で疑問に感じた話題がこのシーンなんですよ。あるお客さんは「監督のカメラワークの凄さと表現力を見せたかっただけなんじゃないか」という人もいますがここまで来てそんな安直な演出をするのかと俺個人は思います。


あくまで個人的な解釈ならまず主人公が暴れるシーン。あれはたぶん「訳の分からないイライラ」を表現しているのではないのかなと。たぶん違ってたらスミマセン。


ただあの年頃のイライラって本当に体験した人なら分かりますが、言葉で表してくださいと言われても言葉に何故かできないんですよね。
劇中の主人公も「いじめの何が悪い」「なぜいちいち謝らなきゃいけない」「母親が過保護すぎる」「なんでこんなにぶん殴りたくなるんだ」と様々な思いが右往左往してしまいイライラしてしまうんですよね。


そしてあの母親が走るシーン。これは町中走って息子を探すシーンなんですが、現実逃避して自分勝手だった自分自身がしっかり息子と向き合おうとする現れでもある大事なシーンなんですよ。
息子が殺人していじめをしていると分かった。だけど今度はしっかり話し合って息子と向き合おうという成長にも見えたんですよね。


だから俺はこのシーンはかなり大切で映画の重大なメッセージにもなってるんだと思います。


「子供は色々と悩み苦悩する。暴れたくなるくらいイライラもする。だからこそ大人が声をかけるべきなんじゃないか?」と。


子供の問題は子供の問題だから大人は手を出すなとはよく言います。勿論それも間違ってはいませんが、やはり解決できなかったり答えが見いだせない問題もありますよ。子供の問題だからこそ、経験を詰んだ大人が寄り添うべきなんじゃないかと。


大人は自分勝手とは言いましたが自分のことで頭がいっぱいになります。だけれど子供もそれは同じことなのではないでしょうか。だからこそ助け合わなければいけないのではないでしょうか?


三者もそうです。やはり自分勝手な考えではなく、他者の気持ちも考えないといけません。無理にいじめの現場に助けにいけとは言いません。ただいじめられる側、いじめた側の話を聞くというのは出きるんじゃないでしょうか?


これなんでこんなことを言うか。よく「いじめられる側にも問題がある」とは聞きますが、「いじめる側にも何かしら理由はある」と個人的に考えているからです。
というのも中学の時にいじめてきた子があまりハッキリとは覚えてませんが、家族間で問題があって、吐ききれないイライラをぶつけてきたというのは耳にしました


いじめられた子がいじめをするという事例もよくあります。劇中でもそれは何かしら理由があり、イライラして吐ききれずにイジメとしてぶつけたのでしょう。
だからこそ第三者が大人が見て見ぬふりではなく、何かしら話を聞いてあげること、問題と向き合うことが大切なんじゃないかと思います。


◆まとめ

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まとめに入る前にふと思ったことを。
最初主人公が顔を傷つけられていじめられてたというシーンがあります。この顔を傷つけた張本人は実は劇中でいじめられてた殺された子供だったのではないかなと思うんです。


根拠はありませんが、あれだけのボウガンを作れるというのと、いじめる側といじめられる側が反対になるというのはよくあること、殺した子の幻を見たり怒りを覚えたりするという点でそうなのかなと。


けれど殺された子は主人公の間を修復しようとボウガンの矢先が向いてようとしっかり主人公と向き合いました。だけれど主人公は向き合うのが怖かったのかもしれません。


だから映画事態のメッセージは「いじめは殺人になるのか?」とか「正義とは?」もそうなんですが、俺的には
大人も第三者も人と人が向き合うことの大切さ。向き合いしっかり話すことでいじめを最小限にできるのではないか?というメッセージも含まれてるんじゃないかなと思いました。


劇中の割り箸でボウガンが作れるように、いじめも誰もが簡単に作れてしまいます。しかしボウガンを壊したからと言って、解決になるかと言われたら解決にはなりません。また新しいボウガンが簡単に生まれます


ならばボウガンを作る途中でもひとつ声をかけたり、ストップをかけるだけでまたボウガン以外の何かしら素晴らしい物を作り上げることは出来るのではないでしょうか?


いじめる側といじめられる側が真逆になる時があると言いましたが、第三者にもなりうるし第三者がいじめる側、いじめられる側になるときもあります。恥ずかしながら俺も第三者の立場になる時はあります。


だけどやはり人と人がしっかり話し合い、向き合えばこんな腐った世の中でもちょっとはマシになると思ったら面白くありませんか?だって劇中ラストのように赤ん坊が笑ったり、主人公が夢見たり赤ん坊と戯れたり出来たんですから。母親も息子と向き合えたし、他人の親子に笑顔向けたんですから。変われるものは変われますよ


もしこれを見て「自分はいじめられてる(いじめてる)けど、相談相手がいません」という人もいると思います。だったら俺の所に来い!ベストな答えは出せないかもだが、聞くことはできる。だから吐き出せ


最近Twitterの質問箱で恋愛の相談ばかりさせれる俺だからな。是非質問箱やコメントに書いといてよ。


まぁ色々言いましたし、なんか考察なのか訳の分からないものになりましたが、映画事態はかなり素晴らしいのでオススメです。こういう見方もあるよってことで見ていただけたら幸いです。



………なんか『しくじり先生』みたいな感じになったなぁ。





はい、そんな感じで!

それでは!